生き恥曝しても死に恥曝すな
生きているうちに恥をかいても、死後に残るような恥をかいてはいけないということ。

yononaka

 世の中で一番恐ろしいのは「人間」だといふ皮肉な箴言は、たぶん世界共通のものであらうけれども、わが日本では、それが、皮肉でもなんでもなく通用してゐるやうなところがあり、昔から、「人を見たら泥棒と思へ」だの、「男子外に出づれば七人の敵あり」だの、とにかく、人間と人間との関係を、おのづから相親しむべきものとせず、却つて、互に心の許せぬもの、油断をすれば隙に乗ぜられるもの、といふ風に教へてゐるのである。それゆゑ「赤の他人」と云へば、まつたく交渉のない人間といふだけでなく、うつかり交渉をもつてはならぬ人間といふくらゐな、反撥と警戒の意をふくめた呼び方なのである。この習慣は多少改まつて来たやうだが、それでもなほ、たまたま同じ場所に落合つた未知の二人が、双方ともに、容易に相手を近づけず、自分からも近づかうとしない、妙に冷淡な素振りを示し合ふことは屡々である。それはほとんど反目にちかい表情で、つとめて相手を無視するやうな態度をしてみせ、どうかしてその一方がつひに折れて、そろそろ話をもちかけでもすると、相手は、内心勝者の誇りを感じながら、表面は、さも大儀さうに、生返事をするのである。  他人の前へ出るといふことが、かうなると、われわれには一つの負担である。必要がそれをさせる以外、「赤の他人」と顔をつき合はすといふことは、まづまづ、差控えたいといふことになる。これはつまり、われわれ日本人が「人間」そのものに脅威を感じるそもそもの理由となるのである。  かう考へて来ると、われわれは、お互同士、なにかやかやのかたちで、多少とも「睨み合ひ」をしてゐるのだと云へないことはない。「脅迫」といふ言葉が大袈裟なので、「睨む」と云つたまでであるが、かういふわれわれの風習は、「隣人愛」といふやうな精神の理解を妨げることおびただしく、「人間性」そのものの自覚をもほとんど不可能にしてゐると、私は思ふ。 大塚の美容室カット2700円!
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