生き恥曝しても死に恥曝すな
生きているうちに恥をかいても、死後に残るような恥をかいてはいけないということ。

syokunihonngi

(註二) 続日本紀、日本後紀など、勅撰の国史以外の道鏡の事を書いた古い記録には、大抵彼を天智天皇の皇子施基親王の子としているのである。さればこれを河内の人弓削氏と云い、先祖に大臣があったという国史の記事とは矛盾しているが如く見ゆるも、葛城王が母の姓を継いで橘諸兄となり、山背王が母の家を承けて藤原弟貞となった例を以てこれを観れば、その矛盾は容易に解決せらるべきであろう。 (註三) 道鏡既に臣籍に下った以上、もとよりこれを以て君と仰ぐべきではない。真備が文室浄三や大市を推戴せんとした事も許すべからざるところであった。しかし藤原基経の権力は、一旦臣籍に降った侍従源定省を親王に復し、さらに宇多天皇として推戴し奉った例も後には無いではない。ここに阿曾麻呂の奏上を容るる間隙があったと解すべきであろう。 (註四) 皇族以外のもので非望を懐いたものとしては、通例平将門が例示せられるのであるが、彼は乱世に乗じて関八州に割拠し、独立を企てただけで、日本国の天子たらんとするのではなかった。しかもそれにしても彼は皇胤たる事の理由を以て自ら説明している。この外には平群真鳥が天位覬覦者として数えられるが、これも孝元天皇の皇胤として、ただの臣籍の例には引き難い。蘇我入鹿にも多少その嫌疑が無いでもないが、彼もまた同じく皇胤であるの誇りを持っていたに相違ない。 (註五) 我が皇位の尊厳と、和気清麻呂に対する過大なる賞讃とは、例えば両天秤の様なもので、一方をあまりに高くあげると、一方が低く下って来るとは、かつて故久米邦武先生の論ぜられたところであった。 医学部の入試演習
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