生き恥曝しても死に恥曝すな
生きているうちに恥をかいても、死後に残るような恥をかいてはいけないということ。

kangun

 七日、官軍の援兵大いに来って、歩兵は三十二個中隊に及んだので、新手をもって次ぎ次ぎ攻めたてた。しかし一塁を抜いたと思うとすぐ奪還される始末なので、こちらにも、塹壕、胸壁が必要であるとて、工兵が弾雨の間を作業した。薩軍の塁に近いのは僅かに二十六米、遠いのでも百米を下らない距離で、作業の困難は一通りでない。射撃の手を少し休めると、忽ち抜刀の一隊が押し寄せた。此夜、折角得た船底の塁もまた奪い去られた。終日の発砲で、銃身が皆熱したので、中には小便をかけて冷したりして用いたが、それでも破裂するものがあった。  八日から十一日まで、戦闘は相変らず激しいが、戦況は依然たるままであった。何時までも、このままでは熊本城は危い。官軍は連日の戦闘で、部署が錯雑して陣形が乱れて居るので、改めて陣容を建なおした。三浦少将の第三旅団は山鹿口を、大山巖少将の第二旅団と別働隊、野津少将の第一旅団は田原口を夫々攻撃することになり、参軍山県中将も本営を高瀬に進めた。十四日の午前六時、号砲三発山に木魂すると共に、官軍の先鋒は二俣口望んで、喊声を挙げる。歩兵に左右を衛られた中央部隊は、暁暗に白く大刀をひらめかして居る。これが、警視庁から派遣されて居た巡査をもって編成した抜刀隊で、この抜刀隊の肉弾戦が、田原坂攻略に大きな役割を果したのであった。不意の吶喊に薩軍の周章るのを、白刃と銃剣で迫り、一百の抜刀隊は諸隊を越えて敵塁に躍り入り、忽ちにして三塁を陥し入れた。薩軍は支えずして、逃れたが、しかし彼我百五十米位で止り、樹木や岩石に拠って猛射するので、官軍の斃れるものが二百余に及んだ。塁や塹壕に躍り入る際に、木材を鋭く削って居るのに落ちて傷つく者も多かった。が、敵塁を占領したのもしばらくで、忽ち薩の抜刀隊五十名余りが、わめき叫んで逆襲して来た為に、官軍敗れ退いて、かの三塁も奪還された。葛飾区 金町 塾
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