生き恥曝しても死に恥曝すな
生きているうちに恥をかいても、死後に残るような恥をかいてはいけないということ。

etani

 エタに関する同情なき取締令の出ているのは、多くは徳川時代も中頃以後の事であった。江戸では天正十八年徳川家康の入国の際、前例により弾左衛門祖先に長吏以下の支配を命じ、大抵の事はその自治に任して、種々の公役に従事せしめた。すなわちエタは一種の村役人町役人の形であった。京都でも下村勝助に百九石七斗七升の高を与え、エタ頭として皮田村の仲間を統率し、別に役俸を与えて公役に従事せしめたのであった。その他諸藩に於いても、特に規則立ちたる取締りという程の事もなく、大抵は彼らの旧慣に任して、村方の雑役に服せしめたのである。したがって判断に困る様な問題の起った時には、領主より彼らに命じて、「穢多の水上」たる京都へ上って、従来の振合いを間合わさしめるという程の有様であった。丹後舞鶴領行永村ほか十二箇村のエタの如きは、延享元年に至って始めて全体を通じてのエタ頭を定められたのであって、それ迄は各自村限りの自治に委しておったものらしい。そして他の諸地方に於いても、大抵こんなものであったと察せられる。アクサダイレクト‐自動車保険比較
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