生き恥曝しても死に恥曝すな
生きているうちに恥をかいても、死後に残るような恥をかいてはいけないということ。

tochi

 土地と血縁と風習との上に築かれた歴史の色が、文学を志す若者の眼に、鮮やかに蘇つて来たのである。そこで、楽天的な歌を唱ふのはまづ勝手である。  しかし、あるがまゝの地方生活のなかに、偉大な民族の悲劇的性格を発見し、周囲の苦悩とはるかな光明とを見つめる厳粛な眼ざしに接することは、近頃の最も大きな感動のひとつである。  第二に、都市生活が消費生活と呼ばれるのに対して、多くは生産的とみられる地方生活者の、時代を背景とする自信に満ちた態度が、自然、文学活動の面にも反映することになつたのが、そのひとつの現れである。  これも、たゞそれだけとしては、一方で云はれてゐる「生産文学」とか、「農民文学」とかに類するもので、必ずしも「地方文学」の範疇にはひるとは云へないが、こゝにも亦、職場を含む特殊な地方的生活形態があるとすれば、その矜りと反省と、希望と感傷とは、亦、「地方的」な文学の要素たり得るものである。  私は、序に云ふが、都市が消費的で、都市以外の地方が生産的だなどと一概に差別をするのは考へものだと思ふ。また、生産のみが大切で消費はつまらぬことだといふやうな断定も危険だと思ふ。  物質的生産はせぬやうにみえても、多かれ少なかれ精神的、頭脳的生産をしてゐるものも相当あるのである。かつまた生産は、生産であると同時に消費なのだから、消費を有効ならしめる能力は決して馬鹿にはならない。  生産礼讃の「地方文学」が、他愛ない御用文学にならないためには、やはり地方生活の真の強みたる「郷土精神」のたしかな把握に基礎をおかねばならぬであらう。 アメリカンホーム評判
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