生き恥曝しても死に恥曝すな
生きているうちに恥をかいても、死後に残るような恥をかいてはいけないということ。

Tabi

 新子が濡れた足袋を脱ぐと、十の指は、爪まで色を失って、冷たく、凍えていた。手の指も、ハッと呼吸を吹きかけないと、自由にならないほど、冷え切っていた。高原の夕立は、都会のそれとは違って猛烈で、雨が冷たかった。準之助氏より、十分ほど早く帰って来た新子は、和服でもありかなりひどく濡れてしまっていた。  女中達に騒がれるのを厭って、コソコソと自分の部屋へ上って来たのだけれど、いくら注意して歩いても廊下に、雫の落ちるほどあさましく濡れた我身であった。  手早く、銘仙の着物に着換え、帯もシャンと締直し、髪も手がるに束ねなおし、気を落ちつけるように机の前に、坐った。  途端に、聞き馴れたスキーパの独唱が、夫人の部屋から聞えて来た。新子の好きな、そして美沢も愛好している「グラナダ」という、古いレコードである。  何という不可思議な心理だろう。新子は、三十分前の自分の気持が、自分でも分らなかった。美沢とは、二年近い交際で、最初から好きで、だんだん愛するようになり、二人ぎりで居る機会も多かったにも拘わらず、美沢が自分の手を握ったことだって、二、三度しかないのに、……準之助氏は、さのみに愛してもいず、一言だって愛を語ったわけでもないのに、どうして、あんなに脆くも唇を許してしまったのだろうか。  新子は、自分の気持が、不可思議でならなかった。やはり、あんな大金をもらったという弱味が、いつかしら自分の心を、あの人の方に傾けていたのかしら。新子は、そう思うと、急に悲しくなった。 古本 買取
 
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